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【教会コラム】十字架上の七つのことば(1)


Hatena

 多くの人が、臨終が近づけば過ぎ去った人生を振り返って、家族と親類など周りの人に遺言を残して亡くなります。イエス様も十字架につけられて死なれる前に、最後に七つのことばを残されました。イエス様が十字架を負って救いの道を完成しようとする時点で残された七つのことばには、どんな霊的な意味が含まれているでしょうか? まず、第一と第二のことばについて調べてみましょう。

 

 

 

第一のことば「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 神の御子であるイエス様が呪われた者がかけられる木の十字架にかけられたのは、ただ私たちの罪のためでした。このようなことを知らないローマの兵士とイスラエルの民は十字架につけられたイエス様をさげすんで、凶悪な罪人扱いしました。ただ良いことだけを行い、傷もないイエス様に向かって「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」とあざけりました。それでもイエス様は息を引き取る瞬間まで彼らを憐れんで「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と神に赦しをお求めになりました。
 イエス様には御力があったので、その心さえあれば十字架から降りて来ることがおできになりました。しかし、ただ神のみこころに従って、人間の救いの摂理を成し遂げられようと、あらゆる苦しみと辱めを黙々と受けられました。人々はイエス様が神の御子として自分たちの罪を贖ってくださるために十字架につけられたことを知りませんでした。本人たちのしている行動がどれほど大きい罪なのかも知らなかったのです。それで、イエス様は十字架につけられて一番初めに、彼らを赦してくださいと求められたのです。
 ここで「彼ら」とは、単に当時イエス様を十字架につけてあざけった人々だけを指すのではありません。まさにイエス・キリストを受け入れないで、闇の中にいる全人類のことを言っています。今日も、多くの人がまことの真理である主を知らないで、途方もない罪を犯しています。敵である悪魔・サタンは闇に属する人々に働いて、熱心に信仰生活をしている人々を迫害するようにします。
 このような時にすべきことは何か、イエス様は十字架上の第一のことばを通して悟らせてくださいました。それは、愛の祈りをしなさいということです。[マタイ5:44]でも「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われました。ただ愛をもって赦して切に祈って、救いに至るように助けてあげることが神のみこころだからです。

 

第二のことば「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 ゴルゴタの丘にはイエス様の十字架を中心に、両側にふたりの犯罪人も一緒に十字架につけられていました。この時、ひとりの強盗はイエス様に悪口を言いましたが、もうひとりの強盗はむしろ彼をたしなめて、イエス様を救い主として受け入れました。すると、イエス様が「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われます。これは、悔い改めた強盗が救われて、パラダイスにいることを約束してくださったのです。また、誰でも悔い改めるなら、罪を赦して救われるようにできるメシヤであることを宣言されたのです。
 三つの共観福音書を読んでみると、イエス様が十字架につけられたとき、その左右にいた強盗についての内容が福音書によって違うことがわかります。[マタイ27:44]には「イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」とあり、[マルコ15:32]には「また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。」とあって、ふたりともイエス様をののしった、と記されています。一方、ルカの福音書23章には、ひとりの強盗がもうひとりの強盗をたしなめ、悔い改めて救われたことが書いてあります。
 このように強盗についての記述が違う理由は何でしょうか? これは聖書の記者が間違って記したのではなく、当時の状況を臨場感豊かに感じるように、神の摂理にあって違うように記すことを許されたのです。
 イエス様の十字架刑当時の状況を考えてみましょう。数多くの人が十字架を取り囲んでいました。祭司長と律法学者、多くの群衆が集まって、イエス様に向かって悪口を言っていました。このように騒がしい中で、ひとりの強盗がイエス様をののしっていました。その強盗の近くにいる人々はその声が正確に聞き取れました。
 ところが、反対側の強盗もイエス様のほうに向かって顔をしかめて何か言っているのが、まるでイエス様をののしっているようでした。彼はイエス様をののしった強盗をたしなめていたのですが、反対側から見る時は、中央におられるイエス様をののしっているように見えたのです。
 このように強盗の言葉がよく聞こえない中で、遠くからその場面を見ていた人々はふたりの強盗がイエス様をののしった、と伝えました。しかし、その時の状況を正確に知っていた人々は、もうひとりの強盗はイエス様と言葉を交わして悔い改めて救われた、と伝えました。それで、神は後世の人々がその当時の状況を、まるで映画のフィルムが回っているかのように生き生きと感じられるよう、聖書の記者たちが違って記すようにされたのです。
 それでは、イエス様が十字架につけられて悔い改めた強盗に「あなたはきょう、わたしとともに天国にいます。」と言わないで「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」言われた理由は何でしょうか?
 救われた神の子どもが永遠にとどまる天国は想像できないほど大きくて美しいです。パラダイス、一天層、二天層、三天層、新しいエルサレムに分れていて、場所によって幸せと栄光が違います。特に新しいエルサレムは神の御座がある最も栄えある場所であり、神に似せられた聖なる完全な人々が入ります。
 一方、パラダイスは天国で最も低い場所であって、恥ずかしい救いを受けた人々が入ります。彼らはただ主を受け入れただけで、罪と戦ってそれを捨てなかったし、神の国のために労苦したことが全くないからです。
 救われた強盗がパラダイスに入る理由も同じです。彼は正しい良心に従って自分が罪人であることを告白して、イエス様を救い主として受け入れただけで、神のことばを守り行おうと罪を捨てたのでも、誰かを伝道したのでもありません。このように主のために何もしたことがないので、報いがないパラダイスの約束をいただきました。
 ところが、イエス様が「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたからといって、イエス様が強盗と一緒にパラダイスにおられるという意味ではありません。イエス様は神の御座の右におられます。王の王であり、主の主であるイエス様はパラダイスだけでなく、すべての天国の主なので、このように言われたのです。
また「きょう」とは、イエス様が死なれた日、あるいはある特定の日を指しているのではありません。悔い改めた強盗が救われて神の子どもとされると、彼がどこにいようがともにおられるという意味です。
 それでは、イエス様が死なれた後、直ちにパラダイスに行かれたのでしょうか? そうではありません。聖書には「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」(マタイ12:40)とあります。そして「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」(第一ペテロ3:19)とあります。ここで「捕らわれの霊たちのところ」とは、監獄のことを言うのではなく「上のよみ」を意味します。イエス様は十字架につけられて死なれた後、上のよみにいる人々に福音を伝えて、三日目によみがえられました。
 それでは、イエス様はなぜ上のよみに行かなければならなかったのでしょうか? 聖書を読めば、イエス様が十字架を負われる前は、救われる人々がアブラハムのふところに連れて行かれたという記述があります(ルカ16:22)。このような人々が集まっている所が上のよみです。
 また、イエス様がこの地上に来られる前の旧約時代や、新約時代であっても福音を一度も聞けなくて死んだ人々がいます。彼らの中には正しい良心に従って生きて、良心さばきによって救われる人もいるので(ローマ2:14_15)、イエス様は死なれた後、上のよみに行って福音を伝えられたのです。
 神はイエス・キリストのほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていません(使徒4:12)。ただイエス様だけが救い主になれる資格を備えておられたからです。したがって、十字架の愛を悟って、すべての人が救われるように、さらに祈りと伝道に努めなければならないでしょう。

 

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