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【教会コラム】十字架上の七つのことば(2)


Hatena

 神の御子として人間の救いの摂理を完成するためにこの地上に来られたイエス様の十字架上の七つのことばには、非常に深い霊的な意味があります。この意味を明らかに悟ってこそ、まことの神の子どもとされることができます。今回は十字架上の七つのことばのうち、第三、第四、第五のことばについて調べてみましょう。

 

 


第三のことば「女の方。そこに、あなたの息子がいます…そこに、あなたの母がいます」

 おとめマリヤはイエス様を見ると、まるで天におられる父なる神にお目にかかっているようで、髪の毛一本でも傷つくのではないかといつも気をつけて、まことと心を尽くして仕えました。
 ところが、イエス様が最も惨めな十字架刑に処せられておられるので、茫然として我を忘れるしかなかったのです。その居ても立ってもいられない心を誰よりよく知っておられたイエス様は、十字架のそばに立っているマリヤを呼ばれました。
 この時、イエス様はご自分を産んでくれたマリヤに「お母さん」と言わないで「女の方」と呼ばれましたが、その理由は何でしょうか。イエス様は神の御姿であられる方なので(ピリピ2:6)、母がいるはずかありません。イエス様は神の御子として人となってこの地上に来られるために、おとめマリヤのからだを借りたのであり、マリヤは神が造られた被造物にすぎません。ですから、創造主の神と一つであるイエス様が母と呼ぶことはできないのです。
 神は「わたしはある」という方であり(出エジプト3:14)、誰かが神を産んだり造ったりしたのでもありません。イエス様は神の御姿であられる方なので、聖書のどこにもイエス様がマリヤを「お母さん」と呼ばれたという記録がありません。
 しかも、マリヤは遺伝的にもイエス様の母になれません。人は親の精子と卵子が結合してこそみごもることができますが、イエス様は聖霊によって宿られた方だからです。それでもおとめマリヤをイエス様の母として仕えて偶像のように拝むなら、十戒のうち第二戒にも背くのです(出エジプト20:4)。神はどんな被造物の形も造らないで、仕えたり拝んだりしてはならないと、徹底的に禁じられたからです。
 次に、イエス様がマリヤに「あなたの息子がいます」と言われましたが、これは誰を指しているのでしょうか。<ヨハネ19:26_27>に「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます』と言われた。それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます』と言われた。」とあります。
 ここで「息子」とは、イエス様を指すのではなく、まさにマリヤのそばにいる弟子ヨハネのことを指しています。イエス様はマリヤを慰めようと、ヨハネを息子のように思うようにと言われました。自分のいのちより愛していたイエス様が惨めな姿で十字架につけられて死にかけておられるので、マリヤの心がどれほどずたずたに引き裂かれていただろうかもよく知っておられたからです。
 そして、ヨハネには「あなたの母がいます」と言って、おとめマリヤに母のように仕えるように託されました。信仰にあってすべての人が兄弟、姉妹であり、家族であるという霊的な所属感を悟らせてくださるためでした。この地上で血縁によって結ばれた家族だとしても、主を信じなければ、永遠にともにいられません。「天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マタイ12:50)と言われたように、ただ神のみこころを行う人でこそ、まことの家族であり、天国で永遠にともにいられるのです。


第四のことば「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

 残忍なローマの兵士がどれほど苛酷にイエス様をむちで打ったのか、十字架につけられたイエス様はあちこち肉がはがれて骨が現れるほどでした。そのように十字架につけられて六時間、水と血を注ぎ出されたのですから、どんな力が残っていたでしょうか。それでもイエス様は大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれましたが、その理由は何でしょうか。
 イエス様が十字架につけられて全人類に伝える七つのことばには、とても深い霊的な意味があります。この声が人々に聞こえなければ何の役にも立たないので、聖書に正確に記されるように大声で言われたのです。
 ある人はイエス様があまりにも苦しくて神を恨んで叫んだ声だと言いますが、決してそうではありません。あらゆるさげすみとあざけりを耐え忍び、すべての苦しみに勝ち抜いた方が、間もなく死なれる頃に神を恨むはずがないでしょう。
 それでは、イエス様はなぜ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」すなわち「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのでしょうか。
 第一、イエス様が全人類の罪を贖うために十字架につけられたことを知らせるためでした。何の傷もしみもないイエス様が罪人を救うためにむごい十字架につけられたことを知らせる絶叫です。
 私たちが見逃してはならないことがあります。イエス様はいつも神を「わが父」と呼ばれていましたが、ここでは「わが神」と呼ばれたということです。その理由は、イエス様が罪人である全人類の代わりに十字架を負っておられ、罪人は神を父と呼べないからです。全人類の罪をご自分の身に負った罪人として、神から徹底的に捨てられた状態だったので、あえて父と呼べなくて「神」と呼ばれたのです。
 第二、イエス様が人の子らのために死んでくださったのに、それを知らないで相変わらず死の道へと向かっている人々にもう一度警告して、悟らせてくださるためでした。神は私たちのためにイエス様を十字架につけられるように、被造物に渡してくださいました。イエス様はなぜ神が徹底的に御顔を背けられたのかをよく知っておられましたが、十字架につける人々は全然悟れませんでした。それで、イエス様は「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言って、無知な人々が神の愛を悟って、悔い改めて救われるように切に叫ばれたのです。


第五のことば「わたしは渇く」

 イエス様は熱い太陽の下で数時間十字架につけられて、血を注ぎ出して脱水状態だったので、ひどいのどの渇きは言葉で表現できないものでした。しばしば、人は飢えには耐えられても渇きは耐えがたいと言いますが、その苦しみがどれほどひどかったでしょうか。
 しかし、イエス様が単にそのようなのどの渇きに耐えられなくて「わたしは渇く」と言われたのではありません。肉的にひどい渇きよりさらに耐えがたい、霊的な渇きがあったからでした。これは神の子どもたちに向かって「わたしが血を注ぎ出してのどが渇くので、血で代価を払ったその恵みに報いることでその渇きを解消してほしい」という切なる叫びでした。死の道に向かっている人を救って、天国に導いてほしい、という意味です。
 人々はそのような霊的な意味を全然知らないで、イエス様が「わたしは渇く」と言われると、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエス様の口もとに差し出しました(ヨハネ19:29)。これは<詩篇69:21>の「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」という預言がそのとおりに成就されたのです。
 それでは、イエス様が酸いぶどう酒を受けられたというみことばの霊的な意味は何でしょうか。これは、イエス様が全人類の罪を贖うために十字架につけられ、酸いぶどう酒を受けられることによって、私たちには新しいぶどう酒を飲ませてくださった、ということを表しています。
 新しいぶどう酒は、救い主として来られたイエス様によって完成された新約の愛の律法を意味します。旧約時代は、罪を犯せば必ず罪のゆえに刑罰を受けなければならないし、罪が赦されるためには、毎回動物をほふって血のいけにえをささげなければなりませんでした。
 ところが、新約時代はイエス様ご自身が罪のためのいけにえとなって十字架で死なれることによって、律法のすべての呪いから贖い出してくださいました。つまり、私たちのために酸いぶどう酒を受けられたのです。ですから、誰でも主の愛を心に信じて、心から自分の罪を悔い改めれば、その信仰によってすべての罪が赦されることができます。これがまさにイエス様が酸いぶどう酒を受けられて、私たちに新しいぶどう酒を飲ませられた神の摂理なのです。
 主は二千年が過ぎた今も、相変わらず「わたしは渇く」と訴えておられます。その渇きは血を注ぎ出されたことによって生じました。イエス様が血を注ぎ出して死ななければならなかった理由は、まさに私たちの罪を贖ってまことのいのちを与えるためでした。その十字架の尊い血によって救われた私たちは、当然、主が血で代価を払ってくださった恵みに報いなければなりません。「血で代価を払ったその恵みに報いる」とは、死の道に向かっている魂を救って、天国に導くことです。今も真理を知らずに世でさまよっている数多くの魂が救われるようにして、主の渇きを解消してさしあげますように。

 

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