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【教会コラム】十字架上の七つのことば(3)


Hatena

 十字架刑は急所を刺さないが苛酷なことで有名です。木の十字架につけられたまま徐々に死んでいくので、その苦しみは想像を超えます。十字架につけられたイエス様の手と足が体重を支えられずに肉が裂け、頭には鋭いとげが肉に食い込んで、顔がすっかり血まみれになりました。むちで打たれて傷だらけになったからだで熱い日差しに照らされて、血を流し続けたので、その苦しみの深さはとうてい推し量れません。ついにイエス様は「完了した」「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」という最後のことばを残して息を引き取られました。

 

 


第六のことば「完了した」

 イエス様がこの地上に来られた理由は、十字架につけられて死なれることによって、すべての人類に救いの道を開いてくださるためでした。ついに約三年にわたる公生涯を終えて、何の罪もなく十字架刑にあわれることによって、人間の救いの摂理を全うされました。それで、十字架につけられて死なれる直前に「完了した」と告白なさったのです。
 ことばが人となってこの地上に来られたイエス様は、神のすべての律法を完全に守られました。そうかと言って、律法を守っていない人々を罪に定められたのではありません。むしろひとりでも多くの魂が悔い改めて救われるように、昼夜なしに真理を教え、罪によって病気とわずらいに縛られている人々と悪霊につかれた人々を直すために、休まず働かれました。結局はみこころに従って十字架につけられて死なれることによって、死に向かっていた人類に救いの道を開いてくださったのです。このように罪人のために呪われた十字架につけられるのは、愛がなければとうてい不可能なことです。
 ところが、神の御子であるイエス様が十字架で死なれることでその愛を現して、旧約の律法を愛によって全うされました。これで敵である悪魔・サタンの陣を打ち砕き、完全に勝利したので、「完了した」と告白なさったのです。
 また、「完了した」というみことばには、イエス様が神のみこころと摂理を追い求めて死にまで従い、救いの摂理を全うされたように、私たちもただみこころのとおり行い、すべてを完了しなさいという意味が込められています。つまり、罪と戦って血を流すまで抵抗してそれを捨て、霊の愛(第一コリント13:4_7)と御霊の実(ガラテヤ5:22_23)、そして八つの幸い(マタイ5:3_12)のみことばを実践して、主の心に似せられていきなさいということです。そのような人は使命を忠実に果たし、熱心に祈って伝道して、多くの魂を主のふところに導くようになります。

 

第七のことば「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」

 イエス様は十字架につけられて、六時間も苦しみを受けながら水と血を注ぎ出したので、死なれる直前には力が全くない状態でした。それでも大声で「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」という最後のことばを残して息を引き取られました。
 十字架の上の七つのことばのうち第四のことばでは、イエス様は「わが神」と言われましたが、第七のことばでは「父」と呼ばれました。罪を贖う供え物としての使命が終わったので、「父」と呼べる資格が与えられたのです。
 それでは、イエス様が「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と最後のおことばを残された理由は何でしょうか。それはまさにイエス様も人のように霊とたましいとからだがあることを知らせてくださるためでした。イエス様のからだはみこころを成し遂げるために死にますが、霊は誰も殺すことができないので、父なる神にご自分の霊をゆだねられたのです。
 人は霊、たましい、からだで構成されていて(第一テサロニケ5:23)、この地上での人生を終えれば、霊とたましいは幕屋であるからだから抜け出るようになります。霊とたましいが抜け出たからだは朽ちて一握りの土に帰るのです。そして、救われた人は天国に行って永遠のいのちと祝福を受け、救われなかった人は地獄に落ちて、とこしえに苦しみながら生きていきます(ルカ16:19_31)。
 ところで、肉にある人のたましいは肉に従っていましたが、この世で人間耕作を受けながら、だんだんと御霊に従うたましいに変えられていきます。それで、天国に行く時は、この変えられたたましいは霊と一緒に行くようになるのです。
 もし、このように変えられたたましいを神が受けられないなら、どうなるでしょうか。天国に行って真理を知っているだけで、この地上で涙、悲しみ、貧しさ、病気など、たましいの働きによって耕作されたことはわかりません。ですから、天国のまことの幸せを感じることができなくて、心から感謝することもできません。この地上で見て、聞いて、学んだことを感じとともに脳細胞の中に入力して、その入力したことを再び思い浮かべるすべてがたましいの働きなので、神は変えられたたましいを御霊に属するたましいとみなし、お受けになるのです。
 イエス様がご自分の霊を神にゆだねたもう一つの理由があります。それは、宇宙万物をつかさどり、人間の生死禍福をつかさどっておられる方が創造主の神だからです。雀の一羽でも神が許されなければ、地に落ちることはありません。すべてが神の所有であり、その方の主権のもとで動いているので、このように祈られたのです。
 それでは、イエス様が大声で「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と祈られた理由は何でしょうか。それは人がみな聞いてわかるようにするためでした。また、大声で神を呼び求めて祈ることがみこころである上に、神に霊をゆだねる祈りだったので、さらに苦しみもだえて叫ばれたのです。
 イエス様がご自分の霊を父の御手にゆだねると祈られたのは、みこころを完了されたことを表します。つまり、みことばに従って完全に使命を果たしたので、堂々とご自分の霊を御手にゆだねることがおできになったのです。

 ついにイエス様は十字架の上の七つのことばを残して息を引き取られましたが、まことに驚くべきことが起きました。<マタイ27:51_53>に「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。」とあります。
 ここで「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」とは、イエス様がなだめの供え物となり、神と私たちの間の隔ての罪の壁を全部打ち壊されたという意味です。「神殿の幕」とは、聖殿の中にある聖所と至聖所を区分するためにかけてある長いカーテンのことを言います。聖所には油注がれた祭司たちが入って、いけにえをささげて神と交わることができたし、至聖所は神が降りて来られるこの上なく聖なる場所であって、大祭司が一年に一度入って、罪人のためにいけにえをささげました。
 ところが、イエス様が十字架で罪のためのいけにえとなられた後、聖所と至聖所の間を遮っていた幕が裂けたので、その時から一般の人も聖所と至聖所に入れるようになりました。イエス様が尊い血を注ぎ出されたことによって、神と私たちの間の隔ての罪の壁を全部打ち壊してくださったからです。
 今は主を信じる人は誰でも、神の聖なる神殿に入って礼拝をささげることができ、祈る時も祭司や預言者を通さず、直接神と交われるようになりました。それで、使徒パウロは「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」と言ったのです(ヘブル10:19_20)。
 次に、イエス様が死なれたとき、「地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いた」とありますが、どういう意味でしょうか。山川草木、すべてのものが動いたことを伝えてくれています。これは神が人間の悪をうめかれる声であって、ひとり子をなだめの供え物として渡されたにもかかわらず、心がかたくなで最後まで主を受け入れないで、滅びに向かっている人々に対する悲痛な心を表現されたのです。
 また、「また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て」とあります。イエス様が死なれた時に多くの墓が開きましたが、イエス様が葬られて三日目によみがえられて、復活の初穂になられた後に、彼らも墓から出て来ました。これは、主を信じる人は誰でも罪が赦され、再びいのちを得てよみがえることを証拠として見せてくれます。
 したがって、皆さんは十字架の愛を深く悟って神のまことの子どもになり、完全な救いに至りますように。

 

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