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【教会コラム】人の子の肉を食べ、またその血を飲んでこそ永遠に生きる


Hatena

 人がこの地上でいのちを維持して健康に生きていくためには適当な食べ物を摂取しなければならないように、私たちが霊的ないのちを維持して永遠のいのちを得るためには、人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければなりません。はたして人の子の肉と血とは何であり、どう食べて飲まなければならないのでしょうか。私たちはなぜ人の子の肉を食べ、またその血を飲んでこそ永遠に生きられるのでしょうか。 

 

 

1. 人の子の肉を食べるとは

 <ヨハネ6:53>に「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」とあります。ここで「人の子の肉」とはイエス様の肉、すなわち、「神のことば」を意味します。
 <ヨハネ1:1>に「ことばは神であった。」とあり、<ヨハネ1:14>には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあります。イエス様はご自分で「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:51)と言われました。まことの食物である人の子の肉、すなわち、神のことばを食べてこそ、永遠に生きられるということです。
 私たちが人の子の肉を食べるということは、聖書66巻に記されている神のことばを糧とすることを意味します。神のことばを糧とするということは、聖書のみことばを知識としてだけ知っているのではありません。みことばで自分を変えさせることです。みことばを知識としてだけ入れる人は、歳月が流れれば忘れることもあり、行いが伴いません。一方、心に糧とした人は、神のことばを暗唱する時も、霊的な意味を心に刻んで口ずさみ、暮らしの中で行いとして現します。
 たとえば、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)とあるみことばを頭でだけ知って、心に糧としなかったとすれば、ある人が悪を行って迫害するとき、気を悪くして相手が嫌いになり、結局悪をもって報いてしまいます。しかし、「愛しなさい」というみことばを心に糧とした人は、このみことばが聖書の何章何節にあるかは忘れてしまったとしても、相手が悪を行うとき、自然に愛と憐れみが湧き上がります。このように神のことばを心に糧としていけば、真理が満たされ、反対に真理でないものが抜けて行くのが体験できます。

 

2. 人の子の肉を食べる方法

 出エジプト記12章には、過越のいけにえの小羊についての内容があります。イエス様を子羊にたとえて、人の子の肉を食べる方法を具体的に教えています。「それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。」(出エジプト12:9_10)とあります。

 まず「生のままで食べてはならない。」とは、どんな意味でしょうか。私たちが神のことばに込められた霊的な意味を悟れなくて、文字そのままに解釈してはいけない、ということです。肉を生のままで食べれば、消化もよくできないし、おなかをこわしやすいです。このように神のことばも、生のままで食べれば、とんでもない解釈が出て来るようになります。
 たとえば、<マタイ6:6>に「 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」とあります。このみことばを文字どおりに解釈すれば、奥まった部屋に入って祈らなければなりません。しかし、聖書のどこにも信仰の昔の人々が奥まった部屋で祈ったという記述はありません。イエス様も奥まった部屋ではなく、山や寂しい所で祈られました。
 奥まった部屋とは、霊的に人の心を意味します。したがって「奥まった部屋に入って祈りなさい。」というみことばは、奥まった部屋が外部から完全に遮断されているように、世の憂いと心配の中で雑念にふけりながら同じことばをただくり返すのではなく、心と知性とまことを尽くして、心を込めて祈りなさい、という意味です。したがって、人の子の肉を食べますが、神のことばを文字そのままに解釈せずに、御霊に感じているうちに霊的な意味を知って、糧としなければなりません。

 次に「水で煮て食べてはならない。」とは、神のことばに世のものをつけ加えてはいけないという意味です。
 たとえば、神のことばを伝えながら、「ある哲学者はこう言った」と世の知識を引用して、まるで真理であるかのように言ってはなりません。人の思いと知識はきわめて限られているし、いくら立派な思想も完全ではありません。一方、神のことばは世のどんな知識よりまさっていて(第一コリント1:25)、唯一の真理であり、永遠に変わることがないので、世のものをつけ加えてはいけないのです。

 また「その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。」ということは、創世記からヨハネの黙示録まで、聖書66巻に記されているすべてのみことばを糧としなければならない、という意味です。
 ある人はレビ記のように理解しにくいみことばは飛ばして読んだり、神が施されたしるしと不思議は信じなかったりします。このように思いに合わないことを取り除けば、結局倫理と道徳に該当することしか残らないでしょう。しかも自分が守りにくいみことばは読み飛ばしてしまうので、いくら神のことばを読んでも、信仰が成長することも、永遠のいのちを得ることもできません。神のことばは自分の思いに合う特定の部分だけを選び取るのではなく、すべてのみことばを完全に信じて糧としなければなりません。それで、神は小羊をまるごと火で焼かなければならないと命じられたのです。
 ここで「火」とは、聖霊の火を意味します。つまり、神のことばを御霊に感じて悟り、糧としなさいということです。もし神のことばを御霊に感じて理解しないで曲解すれば、かえって真理から離れて死の道に向かうこともあります(第二ペテロ3:16)。

 最後に「それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。」とありますが、どんな意味でしょうか。
 私たちが生きているこの世は敵である悪魔・サタンが権威を持っている暗い世です。それで、霊的には夜に属していますが、時期が来て、まことの光である主がこの地上に再び来られれば、霊的には朝になるのです。
 このように主が私たちを連れに再び来られれば、これ以上心の地を耕して変えられる機会がありません。「もっと早く罪と悪を捨てて御霊の歩みに入ればよかったのに。もっとすばらしい天国に入るために心が聖められて、報いもたくさん積んでいれば・・・」といくら後悔しても、すでに手遅れなのです。
 したがって、肉を朝まで残してはならないということは、主が再び来られる前にまめに神のことばをよく糧として、花嫁の備えを完全に終えていなさい、という意味です。

 

3. 人の子の血を飲むということは

 <ヨハネ6:54_55>に「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」とあります。私たちがいのちを維持しようとするなら、食べ物と一緒に水を飲まなければなりません。食べ物と水を一緒に摂取してこそ消化して、栄養分が吸収され、老廃物は排泄されます。同じように、私たちが人の子の肉とともに必ず人の子の血を飲んでこそ、永遠に生きることができるのです。
 人の子の血を飲むとは、糧とした神のことばを行うことを意味します。神のことばを行いとして実践するとき、霊の信仰になり、いのちになります。それで、<ヤコブ2:22>に「あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、」とあるのです。
 私たちが糧とした神のことばを行うとき、真理は吸収されて、それと反対になる真理でないものは排泄されるので、黒い心から白い心に変えられます。たとえば「憎んではならない。互いに愛しなさい。」というみことばを糧としてそのとおりに行えば、「愛」という栄養分は吸収されて「憎しみ」という老廃物は排泄されます。このように神のことばを糧として行えば、真理でない心は抜けて行き、良い心、すなわち、真理の心に変えられていきます。
 したがって、人の子の肉を食べ、その血を飲むというみことばの霊的な意味を悟り、熱心に神のことばを糧として守り行って永遠のいのちを得ますように。

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