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ギフテッド、マイノリティとして生きる。生活の知恵探しブログ。凸凹な日常での発見・悟り・考えていることを綴ります:)。

【教会コラム】肉の信仰と霊の信仰


Hatena

 神がお認めになる信仰は宝のうちの宝であり、すべての問題を解決して霊の世界に入れる鍵のようなものです。信仰があってこそ神に喜ばれることができて、祈りに答えられるし、天国に行けるからです。また、宇宙万物の主である神にいつでも、どこでも会える特権がまさに信仰です。ところで、信仰には、神に認められる霊の信仰とそうでない肉の信仰があります。

 

 

1. 肉の信仰

 肉の信仰とは、目で見て確認されて、自分が知っている常識や知識と一致する時に信じる信仰です。それで、知識的な信仰、理性的な信仰と言います。このような信仰は有から有の創造、すなわち、すでにある材料をもって何かを造り出すことを信じる信仰なので、誰でも所有できます。
 人は生まれてから成長しながら、脳の中にある記憶装置にいろいろな知識を入力します。家庭、学校、職場など、周りの環境を通して見て聞いた知識を記憶しておいて、必要な時に使います。このように入力された知識の中には、真理でないものがたくさんあります。一時真理だと思われていたことが歳月が経ちながら正しくないと明らかにされる場合が多いのです。これを見ても、世の知識が完全ではないということがわかります。
 しかし、真理である神のことばは永遠に変わることがありません。ほとんどの人々は真理を知らないので、真理でないものが真理だと思って学びながら生きていきます。それで、進化論をはじめとして有から有の創造だけを学んできた人は何もない無の状態から有が創造できるということが信じられません。目に見えない神が天地万物をことばで創造なさったということが信じられないのです。
 聖書を読めば、神が天地万物を目に見えない無の状態から創造されたことがわかります。神の御子であるイエス様は目の見えない者の目をあけ、足のなえた者が立ち上がって歩き、走るようにされました。それどころか、死んでからすでに四日になって臭くなっているラザロも生き返らせなさいました。
 肉の信仰を持っている人は無から有の創造が信じられないので、このようなみことばを聞いても信じようとしません。たとえ主を受け入れたとしても、自分が正しいと思う「義」と神のことばが相反することがわかるので、心に葛藤が生じます。たとえば、世の人々は復讐することが正しいと思いますが、神は「敵をも愛しなさい。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」と言われるので、疑いが生じて、完全に神のことばのとおり行えません。
 このような人は「信じます」と告白しても、祈りに答えられることができません。<ヤコブ2:26>に「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」とあるように、神が信仰と認められないからです。したがって、肉の信仰は行いのない、死んだ信仰であり、結局救われることもできません。

 

2. 霊の信仰

 肉の信仰と違って、霊の信仰は無から有の創造を信じる信仰です。目に見えなくて、自分の思いと知識に合わなくても、神のすべてのみことばを信じる信仰です。また、神が「しなさい。守りなさい。してはならない。避けなさい」と言われたとおり従う信仰です。
 霊の信仰を持っている人は神が天地万物を何もない無の状態からことばで創造されたということを信じます。「光があれ。」すると光があったし、見えなくても神が生きておられ、生死禍福と世界の歴史をつかさどっておられるということを疑いません。また、約二千年前、この地上に来られた神の御子イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえられ、再び私たちを連れに来られるということを信じて待ちます。
 このような信仰を持っている人はすべてのことに神を認めて拠り頼むので、どんな問題でも解決されて答えられます。それで、<マルコ9:23>に「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」とあるのです。
 ところが、霊の信仰は自分が願うからといって持てるのではありません。<ローマ12:3>に「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあるように、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて持てます。
 もし神が上から下さらなくても自分で霊の信仰が持てるなら、この世に答えられて祝福されない人はいないでしょう。「主よ、大統領になるようにしてください」と言えば大統領になるだろうし、憎らしい人がいて、「主よ、あの人を懲らしめてください」と言えばそのとおりなるでしょう。するとこの世がどれほど混乱するでしょうか。
 だから、愛と公義の神は誰にでも霊の信仰を下さらないのです。闇を脱ぎ捨てて、光の中を歩んでいるとき、上から信じられる霊の信仰を下さいます。このように神が下さる賜物、すなわち、霊の信仰には行いが伴い、必ず答えられて神に栄光を帰すので、行いのある信仰、生きた信仰とも言います。

 

3. 霊の信仰を所有するためには

 <ヘブル11:6>に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。したがって、神が望んでおられる霊の信仰を所有するには、必ず神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければなりません。また、命令を守り行って、すみやかに自分を真理に変えなければなりません。
 ところで、世で入力された真理でない知識は霊の信仰を持つことにおいて大きい妨害要素になります。世の知識は肉の思いを働かせ、疑うようにするので、真理でない世の知識を引き抜かなければ、肉の信仰を霊の信仰に変えることができません。
 それで、みことばを熱心に読んで聞いて、火のように祈ることによって、心の中にある真理でないものを取り出して、真理で満たさなければなりません。<ローマ10:17>に「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあるので、まずは熱心にみことばを聞いて、教えを受けなければなりません。みことばを知識として入れておかなければ、真理を知らないので、行うことができません。したがって、みことばを熱心に聞いて、教えを受けることはとても大切です。
 しかし、これで終わってはいけません。もしみことばを聞いて、知識としてだけ入れてあれば、知識的な信仰にすぎません。一歩進んで、知っているみことばを行いに移さなければなりません。つまり、肉の信仰から霊の信仰に変えようとするなら、それほど行いが伴わなければならない、ということです。
 たとえば、ある人が立派なピアニストになりたいのに、ピアノ教本を百回、千回読みさえすれば、ピアノが演奏できるでしょうか。違います。理論には詳しいかもしれませんが、実際に練習しなかったので、演奏できないのです。理論を学んで熱心に練習してこそ立派なピアニストになれるように、神のことばを糧として行う時でこそ、霊の信仰が与えられます。
 アブラハムも神の御前に行いで完全な信仰を見せたので、神の友、信仰の父と呼ばれることができました。神がアブラハムにひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと言われたとき、行いとして聞き従わなかったとすれば、信仰の父になれなかったでしょう。しかし、アブラハムは神に心から信頼していたので、聞き従うことによって自分の信仰を完全に証しすることができました。
 このように霊の信仰を所有してこそ、神に認められて愛され、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、霊肉ともに健康である祝福をいただいて、神に栄光を帰すことができます。まことに神に喜ばれる霊の信仰を所有して、救いと永遠のいのちを所有することはもちろん、最も美しい天国、新しいエルサレムを激しく攻めて行き、太陽のように輝く栄光の中にとどまりますように。

 

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