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ギフテッド、マイノリティとして生きる。生活の知恵探しブログ。凸凹な日常での発見・悟り・考えていることを綴ります:)。

【教会コラム】救われるための信仰の一段階


Hatena

  親にとって子どもは目に入れても痛くないほどかわいい存在です。その子どもが育って幼年期を経て、青年になり、おとなになれば、どれほど心強くて誇らしいでしょうか。ところが、子どもが何年経っても成長しないでいるなら、親は心配になるしかありません。
 信仰によって新しく生まれた神の子どもたちも同じです。第一ヨハネ2章に記されているように、子どもたちの信仰がすくすく育って、小さい者たちの信仰、若い者たちの信仰、父たちの信仰になってこそ、神が喜んで祝福してくださいます。それでは、これから信仰の成長過程のうち、子どもたちの信仰、すなわち、救われるための信仰の一段階について調べてみましょう。 

 

 

1. 救われるための信仰の一段階

 信仰の量りはそれぞれの特徴によっていろいろな段階に分けられますが、大きく五段階に分けられます。そのうち、信仰の一段階は最も初歩的な段階の信仰であって、「聖霊を受けるための信仰」、または「救われるための信仰」と呼びます。私たちが主を受け入れれば、神が賜物として聖霊を下さるので「聖霊を受けるための信仰」と言います。また、聖霊を受ければいのちの書に名が記されて天国の民になるので「救われるための信仰」とも言います。
 信仰の一段階はまだみことばについての知識があまりないので、みことばどおり行えません。何が罪なのかよくわからないし、罪を犯しても聖霊がうめかれることをあまり感じません。
 一般的に、聖霊を受けてからあまり経っていない初心の者だけが一段階に該当すると思うかもしれませんが、長い間信仰生活をした人も信仰の一段階であることもありえます。神のことばを知っていながらも行おうと努力さえしなければ、仮に信仰があるとしても、一段階の信仰にしかならないのです。
 また、信仰が大きそうに見えた人がある瞬間肉の行いをした場合、信仰の一段階になることがあります。肉の行いとは、盗み、偽り、姦淫など、行いで犯す罪のことを言います。イエス・キリストを信じて賜物として聖霊を受けた後は、信仰の一段階の人も聖霊に満たされて、教えられたとおり従うので、信仰が大きそうに見えたりもします。しかし、ある瞬間、世に目を向けて聖霊に満たされなくなれば、再び以前の生活のように世と友になって罪を犯したりもします。これが続けば、御霊さえ消されてしまい、一段階の信仰も維持するのがやさしくありません。
 したがって、自分が一段階の信仰に属しているなら、その姿のままでいてはいけません。さまざまな礼拝と祈祷会、集まりに参加して、みことばを聞いて学んで熱心に行うことで、信仰の二段階、三段階、四段階へとすくすく成長していかなければなりません。

 

2. 十字架につけられて悔い改めた強盗の信仰

 <ルカ23:33>以下を読むと、イエス様が十字架刑にあわれるとき、ふたりの強盗もイエス様の両側につけられました。その時、ひとりの強盗はイエス様に悪口を言いました。しかし、もうひとりの強盗は彼をたしなめて悔い改め、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言って、イエス様を救い主として受け入れました。イエス様は彼に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」というおことばで救いを約束してくださいました。
 この強盗はイエス様を救い主として受け入れただけで、罪と悪を捨てもしなかったし、みことばどおり生きもしませんでした。やっと死の直前に悔い改めて主を受け入れたので、神のことばを聞いて学んで悟って行える時間がありませんでした。このように主を受け入れたけれど、神の国と義のために何の苦労もしたことがない人に備えられている天国がまさにパラダイスです。
 そうかと言って「死ぬ直前に主を受け入れさえすれば、救われてパラダイスに入れるので、私もそうしよう」と思ったら大間違いです。神は、悔い改めた強盗が死なないで信仰生活をしたとすれば、主を裏切らないで最後まで変わらないことをご存じだったので、救ってくださったのです。誰でも死の直前に主を受け入れられるのではないし、主を受け入れたとしても、信仰があっという間に与えられるのでもありません。したがって、悔い改めた強盗のように、死の直前に救われる場合は非常に珍しいのです。
 天国の端であるパラダイスに入った人々は恥ずかしい救いを受けたのです。彼らはほとんど自分の思いのままに世と友になって生き、罪を捨てもせず、主のために忠実に働いたこともありません。それで、イエス・キリストを受け入れて、地獄に落ちないで救われたということ一つだけでも、とても感謝なことだと思うのです。

 

3. 信仰の一段階に属する聖徒が入る天国の場所

 パラダイスは神の愛と憐れみのうちに備えられた天国の場所です。神の子どもと呼ぶには恥ずかしいけれど、地獄に行かせるには忍びない魂のために用意されたところなのです。信仰の段階で見れば、パラダイスはかろうじて救われた信仰を持っている魂が入る場所であって、神の御座から最も遠く離れているところです。その分神の栄光の光が弱くて、天国の場所のうち最も低い段階に属します。
 パラダイスの端には、白い御座の大審判(黙示録20:11_12)がある時まで、救われた人がとどまる天国の待機場所があります。全く聖なるものとされて新しいエルサレムに入った人を除いては、世界が始まって以来救われた、数えきれない人がそこに留まっています。このようにパラダイスの一部が天国の待機場所として使われているので、パラダイスは想像を超えるほど大きくて広いです。
 広大なパラダイスは、たとえ天国のいろいろな場所のうち最も低い段階に属していても、この地上とは比べられないほど美しくて幸せなところです。草原のようによく手入れされた芝生と美しく飾られた庭園が多いです。この地上の木や花は時間が経つと枯れて朽ちますが、パラダイスの木はいつも葉が青々しているし、花も枯れません。人が近づけば、花はうれしそうに揺すりもし、花びらをつぼめたり広げたりしながら、それぞれ独特でかぐわしい香りを放ちます。涼しげな木には見事な果物が豊かになっています。果物はつやつやして光沢があり、とてもおいしそうで、ほこりもなく虫もいないから、食べる時に皮をむく必要がありません。
 天国で男性は髪が同じように首の線まで下りています。反対に、女性の髪の長さは聖められた程度を表すので、それぞれ違います。全く聖なるものとされた女性の髪は脊椎の端まで届いています。しかし、パラダイスにいる女性の髪は肩にかかるかかからないかぐらいです。服は一枚に織った白い衣を着て、服に飾るブローチや頭に飾るピンや冠はありません。
 このようにパラダイスに入った人には報いがないので、個人所有の家や装飾品がないし、自分に属して仕えてくれる御使いもいません。ただし、一緒に休める公共の建物で互いに仕えながら暮らします。まるでこの地上の福祉会館のような建物であって、その中にはひとりだけが入って休む小さい部屋もあり、何人が一緒に入って休む大きい部屋もあります。そこは個人の所有ではないので、自分の好みに合わせて飾ることができないし、長い間とどまったり、ひとりのものにしたりもできません。一定時間休んだら他の人のために空けなければならないし、場所が空く時まで待ったりもします。
 しかし、天国では互いに仕えて配慮し、すべてが秩序正しく運営されるので、もし待つとしても、その時間が長く感じられないし、待機する場所も安らかに過ごせるように用意されています。たとえパラダイスで共同生活をしながら暮していても、天国には悪がなくて、互いに相手の利益を求めるので、うれしくて幸せです。
 だからと言って、聖霊を受けた神の子どもたちが「私はパラダイスにだけ入っても十分だ」と言ってはなりません。パラダイスよりさらにすばらしい天国を激しく攻めて、神のことばと祈りとによって聖なる御霊の人になるために、信仰の戦いを勇敢に戦わなければなりません。霊の信仰を成長させて、最も美しい新しいエルサレムに入れる資格を完全に備えますように。

 

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